名前氏のブログ

日々の記録

就活行き詰まり体操3・サザエさん体操撲滅


 私はサザエさん体操を中止に追い込むべく、脳内で計画を練り、ここ3日ほど、人にアンチサザエのメッセージを伝えることが自然にできるかシミュレーションをするなどしてサザエさん体操に備えていた。

うまくいけばラジオ体操に変更だし、中止にはならずとも、私はサザエさん体操に納得していないし、はっきりとアンチサザエであると表明して予定調和を崩しておくことにはそれなりの意義があると思った。


 計画は、まずは同期にそれとなく、「今日もサザエさん体操やるんですかね〜」とか聞いて、ああ!あれ嫌ですよね!という空気を作ることから始まる。

みんなにコンセンサスを取り付け、あらかじめ根回しをしてから、先生にあくまで自然に、かつ少し砕けた口調で「サザエさん体操、実はちょっと恥ずかしいんですよね!他のってないんですか?」とかなんとか言って交渉してみる、はずだった。

同居人によるダンサブルにアレンジ作戦(前回参照)よりだいぶ常識的で穏当である。

 

 しかし世の中そんなにうまくはいかない。

今日の昼休みに、さっそく後ろの席にいる何回か話したことがある女性に「今日もサザエさん体操やるんですかね〜」と話しかけてみた。

すると、「やると思いますけど、なんで?」と言われて、返答に詰まった。

「あれちょっと嫌じゃないですか?」と返すと、「簡単だから別にいいですよ、むしろなんで嫌なんですか?」と不思議そうにされて、沈黙が訪れた。

「ぶっちゃけ、ちょっと恥ずかしいかなーと思って?」と勇気を出して言うと、その人は、「一番後ろの席だから誰も見ていないし恥ずかしくないです」ときっぱり言い切った。


 私はサザエさん体操が簡単でも難しくてもそういう問題ではなくやりたくないし、私は私がサザエさん体操をやっているところを教室の誰もがろくに見てなくても、自分を見つめる自分の目を気にするという意味で公の場でサザエさん体操はやりたくない。

しかしそうじゃない人もいるという事実。

 

 サザエさん体操をすんなりできる人生とできない人生、どっちがいいのだろうと昼休みを使って考えこんでしまった。

 人生には最低限必要な葛藤だってあるぞ、とその人に反発を覚えつつ、サザエさん体操にまつわるそれが果たして人生に最低限必要な葛藤に当てはまるのか、こんな葛藤は単なる脳の無駄遣いではないか、などとも思い、自分の違和感に正当性があるのかだんだんわからなくなってきた。

 私がもしレディガガ並みに自己を確立して揺らがない人間だったらサザエさん体操なんかで自意識の問題を抱えたりせず、淡々とサザエさん体操ができるのではないか。

 まーなー、人はそれぞれ驚くほど感じ方や考え方が違うんだよなー、そう簡単にはいかない、さて、今日もサザエさん体操の時間だ、嫌すぎだグエエ、と覚悟して待ち構えていたら、今日はなんとサザエさん体操は行われなかった。

ないのかよ。ないのかよ。ないのかよ。

あまりこだわりがなく、なんとなくやってるならなおさらあんなものに巻き込まないでほしい。


 同期は5人いるので、次のサザエさん体操に備えてアンチサザエに勧誘できる人材を探すべきだと思う。しかしアンチサザエが私だけでみんな親サザエだったらと思うと、つっこんだ自分を想像して今から冷たい視線を想像してびくついてしまう。多分アンチサザエがもう一人いないと私は戦えない。そのときは、訓練校の卒業式でサザエさん体操がとても嫌だったと正攻法で講師に伝えようと思う。

社会科見学的人生

場のコードが本当の意味で理解できず、表面的に従おうとしても、浸透しない体質だ。

今現在もこの世全体についてピンときておらず、最近もなんとなく眉を全剃りした直後にこんな顔になるとは思わなかった、バイト行けねえじゃんと後悔するなどして、自分なんなんだと思いながら生きているし、女もやれてないし、というか社会の中の人間をやれていないという感覚が強い。それは錯覚でここも社会なんだけれども、私は辺境の末端すぎて社会の一部とみなされて生きていない。無職だし。

 しかし10代の頃は経験の不足からかまだこの世に来てから年月がたっていなかったからか、今よりさらにわけがわかっていないで生きている人間だった。

 

 たとえば破る気はないのに校則が全然守れなかった。シャツを裾から出すのが禁止という校則があっても勝手に裾が出てしまい、髪を染めてはいけないという校則があっても、無視をするとか反抗したいとかいう気持ちは特になく、染めてみたいと思って染めては教員に怒られて黒染めをし、それでも怒られたことを忘れてまた髪を金に染めたり、これもまたなんとなくだが中学の頃の制服を着て高校に行ったりしていた。

 校則を破るのはクラスでの階層が高いギャルたちの特権だったから、スカートを短くしていたら、ギャル二人が寄ってきて、「スカートの丈間違ってるよ」と言って直しに来たことがあった。

下層民がギャルみたいなことをやると怒られるということがよく飲み込めなかったがわけもわからず謝った記憶がある。

 時間もなぜだか全然守れず、遅刻しまくるからと一学期中罰として一番前の席にされていた。

もっと深刻だったのは人間関係のルールも全然わかっていなかったことで、女子の人間関係にグループがあるということを認識していなかった。女子でも男子でも話しかけたい人に話しかけて生きていて、ある時同級生の友達でもなんでもない女子から、「あんたのグループはあそこで、友達はAちゃん。うちのグループのBにばかり話しかけないで、Aちゃんのところに行ってあげなよ。」と秩序を守るための交通整理のようなことをされた。

 共通の話題が一切ないのに引っ付いてくるAのことが嫌いで、文武両道で美人のBと話したかったので、理不尽に怒られたと思いムカついたし、人が誰と話していようが勝手なのに人間関係を操作しようとするその女子の感情が本当のことを言うと今でもわからない。

 

こんな感じだったので、いじめに遭った時はやっぱりなと思った。

 分かってないなりに自分が求められている役割を全然やれてないことだけは分かっていた。学年で一番偉い教員から呼び出されてあなたは我が強いからみんながいじめたくなるのと言われたりした。しかし反抗したかったわけでもなく、ただぼーっとして自分をやっていたら人に嫌われて何もかもうまくいかなくなっただけだった。

中高大と卒業はしたが、心身ともに健康に過ごせた時期は皆無で、常になぜか人がやっていることを普通にやるだけでボロボロになってしまう。

身の回りで起きていることをひたすら不思議だと思いながら時に理不尽に暴力を振るわれつつもすべては社会科見学だと思って観察していたらあっという間に28年経ってしまった感じだ。

しかしいつまで経っても実地での本番が来ない。

職業訓練インターンサザエさん体操とかやらされるしなんとなくコントっぽくて現実だと思えない。

その挙句ついには社会科見学が私の本業なんだと思い始めている。それともいつかどこかで場の中の人になれるんだろうか。

女と料理


実家で食事を出す時に決まって母が「品数が少なくてごめんね」「本当に手抜きで」と自分を責めながら謝罪するようなことを言うのが毎回負担だった。

ちなみに家族には母の料理を責める人は誰もおらず、母の作った料理はレトルトを使うにしてもアレンジがしてあり、手が込んでいたし、毎日異なったものが出され、美味しく、栄養バランスも良かった。

母は自分の料理の具体的な欠点について謝っていたのではなく、とにかく自分の料理はだめなんだとがむしゃらに思い込んで謝っていたように見えた。母は目の前の家族に向かって謝っているようでいて、家族の背後にあるもっと巨大な世間や、世間がかけてくるちゃんとしろという圧力、あるいは完璧に家事をやり抜くことを自分に課していた祖母などに対して罪悪感を覚えて謝っていたのかもしれない。

作るのは必ず母だった。父と弟は淡々と食べるだけだった。弟は家族と距離をうまく取り、家で食事をしないことも多かった。謝られてフォローするのは必ず私の役目だった。

 土井善晴が一汁一菜でいいなんていう、当たり前だと言ってしまえば完全に当たり前であるような主張を伝えてブレイクしている現象があるが、そこから見えてくるのは、手間がかかった料理を作って提供できて当たり前という圧が世の中の料理の主な担い手である女性たちに未だいかに強いかということである。

 母はフェミニズムに触れることに関心がない保守的なタイプで、抑圧に対して反発することで被る損を引き受けない代わりに、世間に従順であるために受ける損については全部引っ被って生きてきたように見える。

抑圧にのし掛かられて、それと戦わずに、自分をちゃんとしていないと見なして生きていく母も辛いだろうが、そんな母を目の当たりにして毎日過ごす私も辛かった。

 料理を作って出されて謝られる度に美味しいし謝る必要はないと伝え続けて、それを繰り返し、私はある時急に母の食事が食べられなくなった。

金銭を介さず人に食事を作って食べさせてもらうということには代償があり、必ず食事を通してコミュニケーションを取らなければならないという義務がついている。

「お母さんのご飯を食べたくない」と直接的に母に伝えるのは、私には禁忌に思えた。そう言ってしまえば、精神的に削られるからもう食事のことで謝られたくないし母とのコミュニケーションを極力減らしたいと伝えることになってしまうのではないか、そのことで母も私も傷ついて、関係が壊れるのではないかと恐れたからである。

今思えば私の不安は過剰だったかもしれないが、それくらい母が作る食事を食べないということは私にとってデリケートな問題だった。

「食べる量や食事の時間がみんなと違うから、ご飯は今度から自分で作って食べる」と母に嘘の理由を告げて、食事を自分で作るようになって好きな時に部屋で食べていると、母の罪悪感の発露によって生まれた私の母に対する罪悪感も自分の中で薄まっていくようで、家族という混沌から心の一部が解放された気分になった。

 私は毎晩小遣いで買える安い材料で、母が料理を作っていない時間帯を見計らい、簡単というよりはもはや雑と言えるもやしと卵しか入っていないマルタイ棒ラーメンやキャベツのみのお好み焼きを作った。しかも一人で部屋で肘をついたり床に皿を置いたりして時には本を読みながらいい加減な食事をした。

それはもしかすると独自の食事ルールを作ってその通りに振る舞わないと不可解なほどにキレる母を無視する訓練だったかもしれない。母は謝りながら食事を出す一方で、麺類や煮物のつゆを残すと言っては怒り、皿を持って食べないと言っては怒り、さらに左手を皿に添えないと言っては怒った。なぜそんな母の独自ルールを守って食べないといけないのか、私にはさっぱり分からなかったし、母にしたって自分がなぜそんな不可解なこだわりによるルールに縛られているのかきっと自分でもわからなかったと思う。こだわりやこだわりに他人が従わなかったときの怒りを相対化できず、なぜ自分にはそのこだわりや怒りの衝動があるのだろうと考えることがないということは、母にとっても周りの人にとっても不幸なことだと思う。

 私は自分で食事を作ることで、誰も謝ってこないし怒ってもこない食事は楽だと気づいた。

私はその後しばらくして彼氏と暮らしはじめ、食事を一緒に作って食べるようになった。家事分担もどちらが仕切りすぎるとかさぼりがちということもなく、きちんとできている。

しかし、最近私は私の中に食事のことで謝って怒る人としての人格が芽生えていることを自覚している。

たとえば彼氏が私が食事の支度を何かする前に野菜を切っていたりすると、「あっ!やらせてしまった」いう罪悪感が生じる。思わず謝りそうになる。そして、脳内でワンテンポ遅れて、いや私もご飯作ってるし!台所のことは女がやるものだみたいなのを意識しちゃってるなら今すぐやめて!とフェミっぽいサイレンが鳴る。また、外出で疲れてたらご飯は僕がつくったげるよ、と言われて、彼氏が疲れて寝ている時に私が一人でご飯を作ったことはあるのに、悪いと思って断ってしまったこともある。

 彼氏には家事の能力があって、食事を作るやる気もあり、彼氏は私を台所に閉じ込めておこうと思っていない。

それにもかかわらず、私は台所に籠城して一人でご飯を作って出すだけにした方が心が落ち着くのだと思う。要するに、実家で見慣れた不幸を再演した方が葛藤が少ない。

私はフェミニストを自認しているが、こういうときは慣習や因習のぬかるみに足をとられた自分を完璧にはコントロールできないでいると痛感する。

キレも引き継いだ。彼氏の、味噌汁を残す、皿に左手を添えない、ご飯粒を残す、肘をつく、これら全部に自動的にキレそうになる。キレる回路をあらかじめ実家で20年近くかけて呪いのように埋め込まれている。身体化された食事ルールには抗いがたいが、抗っている。抗っていたら、だんだん本気でどうでも良くなってきた。というか私もためしに時々肘をついたりしてみている。肘をついていても食事はできる。「栄養足りててそこそこ美味しいものを喧嘩しないで食べられればOK。」

その境地に踏みとどまるために、台所に閉じこもって謝ったりキレたりしそうになる自分を見つめて考え続けないといけない。

私はいい加減もっと淡々と適当に食事をしたいし罪悪感を持つこともキレることもやめたいし、とにかく食事にとらわれたくないのだ。

就活行き詰まり体操第二・サザエさんde体操おすわり編


https://youtu.be/D41jGUUNm-Mサザエさんde体操おすわり編)

皆さんにも考えていただきたいのだが、これはもはや羞恥プレイの範疇に入るのでは

 職業訓練の昼休みはサザエさんのオープニング曲と先生の動きに合わせて訓練生みんなでこの「サザエさんde体操 おすわり編」を行う。

まずは手をグーにして前後に振って足踏みをする。開始1秒からすでにダサい。

途中のガニ股になって手を叩くところもかなり見てはいけないものと言った感じの動きなのだが、個人的には「ルールルルルー、今日もいい天気ー!」と言う最後の歌詞に合わせて腕を伸ばして手を振る動きが一番耐えがたい。

 しかも二番、三番があってなかなか終わらない。続きが四番、五番とあったら私は途中で叫び出していたかもしれない。

 

家では二階堂奥歯最果タヒの本を読んだりしていても、こんなマヌケな体操なのか踊りなのかわからないものを職業訓練に行くたびにやらされていたら、私が私でないものになってしまいそうで不安だ。

文学少女崩れとしての尊厳は一体どこに行ってしまうんだろう。

 訓練校がラジオ体操のようなオーソドックスで健康への効果ももっとありそうな体操をあえて選択しないのは、訓練生の自意識を粉砕し、疑問を持たずに就活の場にいられる人間に作り替えるという隠れた目的があるからかもしれない。


 同居人にこの動画を見せたところ、そんなに嫌ならいっそ激しくダンサブルに振り付けをアレンジして踊り狂ってしまえばいいのでは?とアドバイスされた。

他人事だと思いやがってと思いつつ、現状を打破するにはもうそれしかないのかもしれないとも思ってしまう。

 体を激しく波打たせて持参したホイッスルを吹いてみんなをアッと言わせてみるか。

 どんな怒られ方をするのか想像すると少し楽しいがもう28なので不思議ちゃんではなく不審者の枠に入れられてつまみ出されるかもしれない。

 

別の可能性としては、マイクロソフトオフィスの訓練が基本ではあるが、ダンスのアレンジの独創性を特別に認められ、サザエさんダンス関連の仕事を訓練校から斡旋してもらうなどの思いがけない展開もあるかもしれない。

履歴書のキャッチコピーは踊る事務員。

 ちなみにサザエさんde体操のYouTubeの再生回数は七年間で113万回だそうだ。113万人に向けて、一体何を考えてサザエさんde体操をやっているのか問いただしたい。

就活行き詰まり体操第一・就活とルッキズム

職業訓練に通うたびに「ここから一刻も早く消えたいです」と願う。願うたびに脳のボタンが小人によってバシバシ押され、ボタンが押されるたびに私の目や耳からは恨みがこもった毒の汁がピューと出て、ビジネスマナーを説いて人の道はこっちだと教え諭してくるキャリアコンサルタントを攻撃できる仕組みだ。

嘘だ。

そんな仕組みだったらどんなによかったかと妄想するほど今の私は就活のキモさに追い詰められている。

 訓練施設のキャリアコンサルタントが中年女性のビフォーアフターの証明写真を持って生徒の座席を巡回し、「こちらの写真の皆さんは、他の就活生のお役に立てるならと喜んで提供してくれたんですよ」と、そう言ったところでやっていることのエグさが全く覆い隠されない説明をする。

ビフォーの女性たちはすっぴんだったり髪を下ろしていたり、私服だったり、背景がどんよりしたグレーだったりする。

また、総じて顔色が良くない。それがアフターの写真では一変し、チークを塗って血色を良くしていたり、美白モードで顔色を明るくしていたり、ピンクの背景でフェミニンさを強調していたり、スーツをきっちり着こなしていたりする。

 私はその写真を見せられて、たしかにアフターの方がよく撮れてるな、美しいな、と思ってしまった。

それと同時にそう思う目を持つ自分に呆れ返り、その目を私に寄越した社会を燃やしたくなった。 

 履歴書の写真を撤廃しようという運動が起きた時は嬉しかったが、誰かの現状への疑念が現場まで反映されるスピードはいつも人が実際に人権を棄損されるペースには追いつけない。公的な職業訓練で未だメラビアンの法則とか言ってルッキズムバリバリなのは何なんでしょうね。