名前氏のブログ

日々の記録

女と料理


実家で食事を出す時に決まって母が「品数が少なくてごめんね」「本当に手抜きで」と自分を責めながら謝罪するようなことを言うのが毎回負担だった。

ちなみに家族には母の料理を責める人は誰もおらず、母の作った料理はレトルトを使うにしてもアレンジがしてあり、手が込んでいたし、毎日異なったものが出され、美味しく、栄養バランスも良かった。

母は自分の料理の具体的な欠点について謝っていたのではなく、とにかく自分の料理はだめなんだとがむしゃらに思い込んで謝っていたように見えた。母は目の前の家族に向かって謝っているようでいて、家族の背後にあるもっと巨大な世間や、世間がかけてくるちゃんとしろという圧力、あるいは完璧に家事をやり抜くことを自分に課していた祖母などに対して罪悪感を覚えて謝っていたのかもしれない。

作るのは必ず母だった。父と弟は淡々と食べるだけだった。弟は家族と距離をうまく取り、家で食事をしないことも多かった。謝られてフォローするのは必ず私の役目だった。

 土井善晴が一汁一菜でいいなんていう、当たり前だと言ってしまえば完全に当たり前であるような主張を伝えてブレイクしている現象があるが、そこから見えてくるのは、手間がかかった料理を作って提供できて当たり前という圧が世の中の料理の主な担い手である女性たちに未だいかに強いかということである。

 母はフェミニズムに触れることに関心がない保守的なタイプで、抑圧に対して反発することで被る損を引き受けない代わりに、世間に従順であるために受ける損については全部引っ被って生きてきたように見える。

抑圧にのし掛かられて、それと戦わずに、自分をちゃんとしていないと見なして生きていく母も辛いだろうが、そんな母を目の当たりにして毎日過ごす私も辛かった。

 料理を作って出されて謝られる度に美味しいし謝る必要はないと伝え続けて、それを繰り返し、私はある時急に母の食事が食べられなくなった。

金銭を介さず人に食事を作って食べさせてもらうということには代償があり、必ず食事を通してコミュニケーションを取らなければならないという義務がついている。

「お母さんのご飯を食べたくない」と直接的に母に伝えるのは、私には禁忌に思えた。そう言ってしまえば、精神的に削られるからもう食事のことで謝られたくないし母とのコミュニケーションを極力減らしたいと伝えることになってしまうのではないか、そのことで母も私も傷ついて、関係が壊れるのではないかと恐れたからである。

今思えば私の不安は過剰だったかもしれないが、それくらい母が作る食事を食べないということは私にとってデリケートな問題だった。

「食べる量や食事の時間がみんなと違うから、ご飯は今度から自分で作って食べる」と母に嘘の理由を告げて、食事を自分で作るようになって好きな時に部屋で食べていると、母の罪悪感の発露によって生まれた私の母に対する罪悪感も自分の中で薄まっていくようで、家族という混沌から心の一部が解放された気分になった。

 私は毎晩小遣いで買える安い材料で、母が料理を作っていない時間帯を見計らい、簡単というよりはもはや雑と言えるもやしと卵しか入っていないマルタイ棒ラーメンやキャベツのみのお好み焼きを作った。しかも一人で部屋で肘をついたり床に皿を置いたりして時には本を読みながらいい加減な食事をした。

それはもしかすると独自の食事ルールを作ってその通りに振る舞わないと不可解なほどにキレる母を無視する訓練だったかもしれない。母は謝りながら食事を出す一方で、麺類や煮物のつゆを残すと言っては怒り、皿を持って食べないと言っては怒り、さらに左手を皿に添えないと言っては怒った。なぜそんな母の独自ルールを守って食べないといけないのか、私にはさっぱり分からなかったし、母にしたって自分がなぜそんな不可解なこだわりによるルールに縛られているのかきっと自分でもわからなかったと思う。こだわりやこだわりに他人が従わなかったときの怒りを相対化できず、なぜ自分にはそのこだわりや怒りの衝動があるのだろうと考えることがないということは、母にとっても周りの人にとっても不幸なことだと思う。

 私は自分で食事を作ることで、誰も謝ってこないし怒ってもこない食事は楽だと気づいた。

私はその後しばらくして彼氏と暮らしはじめ、食事を一緒に作って食べるようになった。家事分担もどちらが仕切りすぎるとかさぼりがちということもなく、きちんとできている。

しかし、最近私は私の中に食事のことで謝って怒る人としての人格が芽生えていることを自覚している。

たとえば彼氏が私が食事の支度を何かする前に野菜を切っていたりすると、「あっ!やらせてしまった」いう罪悪感が生じる。思わず謝りそうになる。そして、脳内でワンテンポ遅れて、いや私もご飯作ってるし!台所のことは女がやるものだみたいなのを意識しちゃってるなら今すぐやめて!とフェミっぽいサイレンが鳴る。また、外出で疲れてたらご飯は僕がつくったげるよ、と言われて、彼氏が疲れて寝ている時に私が一人でご飯を作ったことはあるのに、悪いと思って断ってしまったこともある。

 彼氏には家事の能力があって、食事を作るやる気もあり、彼氏は私を台所に閉じ込めておこうと思っていない。

それにもかかわらず、私は台所に籠城して一人でご飯を作って出すだけにした方が心が落ち着くのだと思う。要するに、実家で見慣れた不幸を再演した方が葛藤が少ない。

私はフェミニストを自認しているが、こういうときは慣習や因習のぬかるみに足をとられた自分を完璧にはコントロールできないでいると痛感する。

キレも引き継いだ。彼氏の、味噌汁を残す、皿に左手を添えない、ご飯粒を残す、肘をつく、これら全部に自動的にキレそうになる。キレる回路をあらかじめ実家で20年近くかけて呪いのように埋め込まれている。身体化された食事ルールには抗いがたいが、抗っている。抗っていたら、だんだん本気でどうでも良くなってきた。というか私もためしに時々肘をついたりしてみている。肘をついていても食事はできる。「栄養足りててそこそこ美味しいものを喧嘩しないで食べられればOK。」

その境地に踏みとどまるために、台所に閉じこもって謝ったりキレたりしそうになる自分を見つめて考え続けないといけない。

私はいい加減もっと淡々と適当に食事をしたいし罪悪感を持つこともキレることもやめたいし、とにかく食事にとらわれたくないのだ。